左心房

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【映画】ファインディング・ドリー:虹色のディズニー【感想】

どうもこんばんは。

改めて映画が好きな私です。家のテレビやパソコンで観るのも楽しいですがやはり映画館で観るのは格別ですね。

今回(8月4日)は、7月16日に公開された映画『ファインディング・ドリー』を観てきました。

8月4日です。この記事の書き始めは実は8月4日の夜、5日に日付が変わる頃でした。

ぐだぐだしてたらあっという間に一ヶ月後ですが。

 

 

そんなわけで以下、ネタバレへの配慮皆無な『ファインディング・ドリー』感想です。

 

 

感想おおまかに

ファインディング・ドリー』、控えめに言ってとってもとっても良かった。

ピクサーの手法に慣れきった頭でもきっちりポイントで笑って泣けて、堅実なハートフル作品でした。さすが信頼のピクサー

映像技術の進歩もすさまじいもので、ニモの頃から綺麗な画ではありましたがドリーにおける水や光の描写は比べものにならないほど、息を呑むほどに美しかった。

特に透明感が段違いでしたね!!!

 

これは本編前に挟まれるショートアニメ『ひなどりのぼうけん』でも輝いていました。

冒頭の湿った砂浜や波打ち際の揺らめく海水など、一瞬なにか別の実写映画が始まったのかと驚きました。

シギのひな鳥が親鳥から餌を貰おうと嘴をパカパカさせているカートゥーンチックなシーンで、やっとそれがピクサー作のアニメーションなのだと気付いたほど笑

 

素晴らしい映像技術はハンクの質感やぬるっとした動きにも出ていましたね…!

パンフレットにもハンクは技術の集約だと紹介されていましたが、あのぷにょぷにょした肌の質感や流動的で自在な手足の動きは本当に、うっとりします。

なによりハンクはチート性能すぎてかっこいい!笑

ハンクはキャラクター的にも映像美的にもずっと見ていたい最高のミズダコでした(*´-`)

コーヒー啜るタコって笑

 

ストーリーとしては、ニモの物語から一年後、ふとしたきっかけで自分にも家族がいることを思い出したドリーが故郷と家族を捜して冒険をするというもの。

今回も大海原を旅するのかと思いましたがそこはクラッシュはじめウミガメたちの協力であっという間に突破。やっと平穏な暮らしを手に入れたのに、また海を旅することになって「海を渡れるやつを知ってる」と呟くマーリンの哀愁たっぷりの表情には笑いました。

 

しかし故郷付近のカリフォルニア、海洋生物研究所に来てからが大変だった。

ドリーとニモ・マーリン親子がはぐれ、3人はドリーの家族を捜すためそして合流するため、研究所に棲む海洋生物たちの力を借りながら広い研究所を行ったり来たりすれ違ったり。

ドリーの鰭に着けられたタグを手に入れようとするミズダコのハンクや、昔なじみであるジンベエザメのデスティニー、シロイルカのベイリー達の力を借りて、やっと生まれ故郷である”オープンオーシャンの水槽”に帰ってくるドリーだったが、そこに両親の姿は無く。

また、両親とはぐれたのはいけないと言われて居たのに排水のパイプに近付いた自分のせいだった。

無事にニモ・マーリンと合流するも、結局行方知れずの両親は既に死んでしまった可能性が高いと知り(しかも間接的に自分のせいで)、パニックに陥るドリー。

 

前作からドリーは基本的に楽天的な上にノリが軽いので落ち着きがないキャラでしたが、あんなにシリアスに取り乱し、パニックになるシーンは今回が初めてでしょう。

カメラがドリーの視点に据えられたためにドリーが跳ねるごとに激しく上下する画面も相まって、もしかしたらこのままドリーは壊れてしまうのではないかと思うほど深刻で、痛々しかったです。

 

そこからのあの再会シーンだから、涙がこみ上げずにはいられなかったのですが。

両親が無事に生きていたこと、ドリーをずっと待っていてくれたこと、物理的にも心情的にもドリーがひとりぼっちではなくなったこと。

心底ほっとして、良かったね良かったねと泣いてしまいました。正直あの瞬間は海洋生物研究所に置き去りのニモたちのことを気にしている余裕はなかったので、ドリーが思い出したところでああそうだった、と釣られて思い出す感じでした笑

 

個性豊かなキャラクターたち

ファインディング・ニモ』の頃からそうでしたが、このシリーズは”障害”という単語が直接作中で使われることはなくとも、とても印象づけられる作品です。

 

第一作の主人公ニモ、今作の主人公ドリーは言わずもがな。

その父マーリンも妻を失ったトラウマのせいか心配性が過ぎるし。

ハンクは足が一本欠けていて、デスティニーは視力が弱くてすぐ壁にぶつかってしまう。

ベイリーに関しては強いて挙げるならば少々臆病といったところでしょうか。

他に印象的なのは魚類・ほ乳類・鳥類に拘わらず人間以外とは自由にやりとりが出来るあの世界で、まともに言葉を交わせず焦点もなかなか合わないベッキー

 

枚挙にいとまがない、というか主要キャラクターのほとんどが何かしらの障害を抱えています。

 

ですが今挙げたメンバーそれぞれ、障害によって確実に割を食ってる部分はありますし実際描写もされているのですが(ドリーが他人から敬遠されたり、デスティニーが頻繁に頭をぶつけたり)、いずれのキャラクターもそれをつらい、困る、大変だ、嫌だ、とは言わないんですね。

健常者なら良かったのに、とは言わない。みんながみんな、これまで生きてきた過程で障害を受け入れうまく付き合う、自分なりの生き方を見つけている。

顕著なのはハンクで、もともとタコは能力の高い生物だそうですが、それにしたってチートすぎるだろうと批判的な意見も見られるほど大活躍しています。

 

何かしらの障害を抱えた登場人物がいる場合、最近の某長時間ぶっつづけ生番組の裏でも言われていましたが「障害者を扱った感動話」が描かれそうなものです。

障害を抱えた登場人物が、それでもあらゆる苦難を乗り越える、それによって視聴者は達成感をことさら強調して感じられる。

 

ですが本作においてそういった描写はエコロケーションを出来なかったベイリーが友人ドリーのために能力を発揮する、というシーンくらい。

しかもそれは障害でもなんでもなく、ただの思い込みで、本当は最初からエコロケーションを行うにおいて障害などひとつも無かったのです。

あとのキャラクターは皆、ドリーでさえ最終的に健忘症は治っていないし治したいとも言っていない、忘れるものは忘れたまま。「障害を」乗り越えるという描写はありません。

 

虹色のディズニー

ここで話は変わりますが最近ズートピアのDVD/BDが発売されましたね。

私もすぐに購入して、買った当日は一日中ずっとリピートしていました。

ズートピアでも「多様性」というワードが、作中には登場しませんが視聴後の印象として強く残ります。

 

草食動物と肉食動物の違い、うさぎは間抜けで狐はずる賢いという偏見、ジュディのおとなりさんの二人は同性カップル説だとか、ガゼルはオス説など。

それらに惑わされずバイアスをかけずに、個人を見ることの大切さ、差別することの愚かさ、卑劣さが痛烈に描かれていました。

一方でニックの悲しい過去に由来するアウトローな生活やジュディの両親の安定を重視した生活も含め、登場人物がそれぞれそういった差別を踏まえた上で自分に合った生き方をしていました。

 

ファインディング・ドリーの登場人物も、ズートピアの登場人物も、それぞれが各々の生活を確立しています。

時には物忘れによって会話が成立せず相手を苛立たせてしまうこともあります。

能力が高く己を操るに不自由がなくても、病院(海洋生物研究所)に長年閉じ込められ外界に対して臆病になってしまうこともあります。

 

ですが、忘れてしまったこと、忘れてしまうことを嘆くことはありません。

歌姫と称される歌手に立派な角が生えていても誰も異議を唱えません。

 

身体障害であったり、精神障害だったり、性的志向であったり、偏見であったり。

 デフォルメされた”キャラクター”ではなく、どちらの作品も、この世のどこかに確実に生きている”誰か”が2時間弱という狭く短い世界に集合しています。

 

ディズニーやピクサーが「多様性を認め合おう」「差別はやめよう」というメッセージを伝えるためにこういう作品を作ったのかというと、私はそうではないと思います。

というかまず大先輩のドナルドが怒りん坊のトラブルメーカーだったり、グーフィーがひょうきんでおまぬけだったりするのですから、今更感さえあります。

 

現代日本に生きていて、最近はまずそういう多様性があるということの認知度がじわじわと上がってきているし、個人の権利を守ろうという動きが強くなってきているように感じます。

そしてそれは日本だけの動きではない(というか日本はずっと遅れていると思います)でしょう。

そういった社会背景において、『ファインディング・ドリー』や『ズートピア』のような作品が誕生するのはごく自然なことなのでしょう。

 

世界規模で市場を広げているディズニーが発表する映画は全世界の人が見ることでしょう。ならば全世界をきちんと画面に反映しなければ、画面はただのハリボテとなり、誰しもの心に響くものにはならない。

ファンタジックな設定をリアルな世界観が支えているからこそ、ディズニー作品は共感を得るのです。